「暑いなぁ…」
美咲は重い体を起こした。時計は5時をまわっていたが、朝の5時なのか夕方の5時なのか、分からなかった。
蝉がけたたましく鳴いている。
美咲は、昨日とはまるで違う世界に生まれ変わった心もちで、エアコンの切れた部屋を見渡した。そして、このどうしようもない暑ささえも、愛しく感じた。
スマホを手に取る。
昨夜は、自分が自分でないみたいだった。
「一緒にいようよ」なぜあんなことを言えたのだろうか?頭はうまく回らない。論理的に説明しなさい、とゼミではよく指摘されていたが、こんなにも自分は感情論で動く人間なんだな、と美咲はふっと笑った。
もしかしたら、夢を見ていたのかな…。
「お腹すいた、」宏樹からの、初めてのメッセージが表示されている。
夢じゃないな、今。
ビアホールのバイトのまかないで、宏樹が和食を好んで食べていたことを美咲は見ていた。昨日はほとんど寝ずにいたから、お腹が空いているといっても、消化の良いものを食べた方がいいだろう。
「しいたけは苦手だって、言ってたかな」
美咲はエコバックと財布を持って、立ち上がった。
「一緒にいようよ」あの日から美咲と宏樹は、一緒に過ごす時間が増えた。ビアホールのアルバイトをして、終わったら美咲のアパートへ一緒に帰り、夕食をとる。宏樹は美咲の作るおひたしや、魚の煮物を好んで食べた。いただきます、と手を合わせる時、宏樹は決まって、左手は拳を握って、右の手のひらにパンッ、と合わせる。バイトのまかないの時は普通に両手を合わせていた。美咲は、宏樹のいただきますを聞くたびに、温かいお湯のようなものがじんわり心に広がっていくのを感じた。
2人分の食器を洗い終わってリビングをのぞくと、シングルベッドに長い足を窮屈そうに折りたたんで眠る宏樹がいた。きれいな寝顔を見つめながら、美咲はこのまま、長い夏休みが明けなければいいのにと毎晩願った。
宏樹はアルバイトをひとつ増やした。バイクサークルの先輩に頼まれて、繁華街にあるショットバーに週1回だけ、行くことになったという。
「ショットバーか。行ったことないなぁ。」
美咲はスマホで、宏樹が今日から勤務するお店のサイトを見ながら、つぶやいた。
「そうなんだ、じゃあ、来る?俺がバイトに慣れたら。」
宏樹もスマホで、カクテルの作り方を調べながら顔をあげずに返した。
「うん、でも、私なんかが、行ったら、なんか」
「私なんかが?何?」
「行ったら、迷惑っていうか」
「めんどくさ」
宏樹が立ち上がった。あれ、宏樹ってこんなに背が高かったかな?美咲は見上げた。
「美咲のそういうの、」
「え」
「美咲さんのそういうの、めんどい」
宏樹はどこかに電話をかけながら、部屋を出ていった。美咲は久しぶりにさん付けで呼ばれたことに動揺しながら、玄関のドアを見つめた。
(鍵、かけた方がいいの?ロックする?)
(でも、宏樹、すぐに帰ってくるかもだから、)
(なんだろう、なんか、上手く立ち上がれない)
チェーンを外したままの部屋に、宏樹が戻ってくることはその日なかった。