ここいま小説

小説「最後の恋」第1話(全3話)

―伊勢丹の前に、19時。大丈夫?

高瀬からメッセージが入ったのは、16時30分。

綾は、スマホを手に取り席を立った。

(ああ、そうか。部長は今日、出張から帰ってくるのか。)

(出張から帰ってきたら、部長、お酒飲みたがるよな…。)

(まぁ、おごってくれるしいいんだけど。)

(あー、じゃぁ。食べログチェックしとこう。新店あったっけか。)

アプリを立ち上げながら、化粧室へと歩く。

「おっっと」

綾の鼻先に、ネクタイが触れた。

「あっすみません、あ、高瀬部長」

ぶつかりそうになったのは、スーツケースを引いた高瀬だった。

「おつかれ、てかながらスマホ」

高瀬は、綾の肩を抱きながら、スマートに通路脇によせた。

「すみません…お疲れさまです…今、メッセージ見てました」

「ああ、そうか。…あれだよな…ビールって旨いよな」

高瀬からは、むんとした湿気の空気と共に
流行りの柔軟剤の匂いが漂ってきた。

(やっぱ、今夜は餃子で決まりだな。)

綾はネクタイの結び目を見つめながら

「ビールに合う物、食べたいですよね」

と微笑んだ。

高瀬は仕事ができる人間として、社内外の知名度が高く、出世したい男性社員からカリスマ的な人気があった。
高瀬と親密にしたい人間はたくさんいる。
高瀬がオフィスに戻ると、男性社員たちが一斉にお疲れさまです!と声をかけた。おつかれ、おつかれ、と声をかけながら高瀬はフロアを歩いていく。

職場が一気に活気づく。

綾はこの瞬間、いつも優越感にひたる。
自分より年上の男性社員が、高瀬に今夜、いっぱいどうですか?お疲れでしょう、なんて作り笑顔を浮かべて夕食の誘いをしている声が聞こえる。
一生懸命だね、あの人。
私には、オラオラな態度なのにね、ダサいなぁ。
高瀬部長は、私と予定があるのよ、し・か・も。誘ってきたのは高瀬部長。

メールチェックをしながら綾は腕時計に目を落とす。
終業時間まであと15分、現在時刻17時45分。
どうかもう、どうかどうか、仕事が降りてきませんように。
私の口は、ビールと餃子なのだ!

おもむろに綾はスマホを取り出し、高瀬にメッセージを送信する。
「高級餃子バル」なんていう訳の分からないけど面白そうなお店の地図を添付した。
10秒ほどして顔をあげると、スマホを手にした高瀬が綾に視線を送っていた。

なんだっていい、私が出世したらいいのだ。
なぜ高瀬が私とさし飲みしたがるのかは分からない。だけど、なんだろう。
こういう時、綾は、高瀬をコントロールした気になる。

「よっしゃ、しごおわだな。今日は帰るわ」
高瀬が18時を指した時計を見ながら鞄を手に取る。
くたびれた男性社員たちが不満そうに
「高瀬部長、久々の凱旋出社なのに、僕たちと遊んでくれないんですか?本当に?」
と口をとがらす。
「おー、俺だってたまにはゆっくりした時間が必要なわけよ」
彼らをなだめながらオフィスの出口へと歩いていく。

綾もパソコンを片付けながら、退社時間をみはからう。
みんなで一緒に飲むなんてことになったら、意味ないのよ、なんとかして
あの男性陣を巻かないと…。そう考えながら化粧室へ向かった。
ビールのジョッキにべっとりつかない口紅、口紅はと…。
ポーチをごそごそしながら、今夜の気分にぴったりなリップを選ぶ。

(はー。出世したい。あと何回高瀬部長と飲んだら出世できるかな。)
(いや、そもそも、高瀬部長と飲んだからと言って出世できるとは限らないぞ。今時そんな人事ある訳ないし)
(じゃ、わたし、なんでいつも高瀬部長とさし飲みしてんだろ。)
(まぁ、私の給料じゃ行けないお店にいっておいしいものが食べられることに期待している欲深い自分は認める。)
(いやぁ、まさかね、わたし、年下好きだし。恋愛対象とかそういうのでは、おたがいに。)

すっとひいた赤いリップは微妙にずれた。

(つづく)

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