ビアホールのアルバイトは、相変わらず忙しかった。片手にビールジョッキを4本、両手で8本。空のジョッキは軽いが、ビールが並々と注がれたジョッキはずんと重い。
連日の記録的な猛暑で、どれだけビールを注いでも、サラリーマンはビールを求める。
「お母さん!ジョッキある?」
「洗ったよ、持っていこうか?そっち」
「いい、いい。お母さん、今日早上がりでしょ、上がりなよ。宏樹によろしくな」
アルバイト仲間に促されて、おつかれさま、とつぶやきながら、美咲はエプロンを取った。
今日は10日ぶりに宏樹がアパートにやって来る。ショットバーのアルバイトは週1回とはいえ覚えることが多いようで、宏樹は毎日のようにお店に通っていた。
今日は冷しゃぶにしようかな、と美咲は足早に帰り道を急いだ。
「ちっす」
宏樹が玄関でクロックスを脱ぐ。10日しか経っていないけれど、美咲は懐かしくその声を感じた。10日前に宏樹がショットバーのバイトに行きだして、初めて会うので、たくさんと話したいことがある。
「髪、染めたんだ」
美咲は背伸びして、宏樹の髪を撫でた。とても優しい茶色に染めていた。
「ああ、先輩が似合うとか何とか言って」
(カクテルの練習だけじゃなかったんだ)美咲は久しぶりに会えたうれしさと、宏樹の髪色に戸惑いを感じた。めんどくさい、と言われたあの時から、宏樹に対して慎重に言葉を選んでいたので、気軽に声を掛けるのが怖かった。新しいバイトのこと、髪色のこと、たくさん聞きたいことはあるのに。
「冷しゃぶ、にしたんだよね」
美咲はそう言って、テーブルに2人分の箸を並べた。
いただきます、と右手に左手の拳を合わせてから、冷しゃぶとご飯を交互に食べ始める宏樹。美咲は宏樹に見つからないように、髪色をじっと見つめた。とっても似合ってる。とっても。この色、ホットペッパーに載ってるモデルさんみたいだな。ここら辺の美容院じゃやってくれない、繁華街の美容院かな、分からないな。
美咲はうつむかないように、宏樹の毛先をじっと見つめた。
―今から先輩と遊ぶんだけど、終わってから、会う?
ショットバーが忙しいと、宏樹はビアホールのアルバイトを辞めた。カクテルづくりの研修やら、バイクサークルの集まりやらが重なり、宏樹は美咲のアパートを訪れることはなくなっていた。2週間ぶりの宏樹からの誘い。たった2週間とはいえ、美咲にとっては季節が変わるほどに長く長く感じていた。
―そうなの?何時ぐらいから会えるかな?
汗ばむ手でメッセージを送信する。蝉の音も聞こえなくなった。
―18時くらい?伊勢丹前とか?
美咲はスマホを手に立ち上がって、クローゼットを思い切り、開いた。
17時30分、伊勢丹前。
美咲は時計を見るふりをして、左の手首を嗅いだ。
うん、いい匂い。少し前に伊勢丹で買った、ランバンの香水。これをつけるのは初めてだ。ランバンの香水をつけると、こんな自分でも繁華街に行って大丈夫。そんな風に言い聞かせた。
ここ数日、夕方になって、風が涼しくなったように感じる。ワンピースの裾を風が通り抜ける時、美咲はもう一度、左の手首を鼻に近づけた。
宏樹に釣り合う、よね。大丈夫だよね。
18時5分。
夕方の通勤ラッシュでスーツ姿のサラリーマンが急に増えた。伊勢丹の壁に背中をピッタリとつけて、美咲は背の高い宏樹を探した。
汗でランバン、流れないよね?最後にもう一度、美咲は左の手首を確認した。
18時30分。
人ごみであふれる伊勢丹前。ハンカチでパタパタと仰ぐ美咲の顔の前に、黒いTシャツがぬっとあらわれた。
「あー、ごめんな、待たせて」
宏樹だった。沢山の人がいても、私見つけられるな、と美咲は感じた。宏樹って、きれいだから。本当にきれい。外を一緒に歩くのは久しぶりなので、美咲は少し緊張した。
「大丈夫、今日はどこへ…」
「ごめんな。今日会えないから、それだけ言いに」
美咲は前を見れなくなった。今日は宏樹、クロックスじゃないんだ。
「あ」
「忙しいから、でもそれだけ言いに」
どんっ、と宏樹の背中にサラリーマンの肩が当たった。宏樹の胸が美咲の顔に近づく。
「え、」美咲は宏樹の黒いTシャツを見つめてやっと声を出した。
「そう、だからごめん。あとさ」
「うん」
「その香水、好きだけどいやだ」
じゃまたLINEするわ、という最後の声も聞こえないままに宏樹は人ごみに消えた。
うん、うん、そっか、そうだね、忙しいから仕方ない。
美咲は人ごみを見つめた。今、ここにいる誰よりも、目の前にいた宏樹はきれいだった。何千人とここには人がいるんだろうが、宏樹は私を見つけてくれた、そして声をかけてくれた。
それだけでいいじゃないか、宏樹が私を知っている、それだけで。忙しいのに、会いに来てくれた。それだけで。
宏樹の中に、今日1日、一瞬でも私がいた、それだけで。美咲は笑顔になった。泣くのは違うと思った。惨めになりたくなかった。
「ねー、帰ろっかね」
美咲は笑顔のまま、自転車置き場に向かった。
大学を卒業しても美咲は地元に戻らず、この町にいる。
ビアホールが入っていたビルは買収され、今ではビジネスホテルになっている。車でホテルの前を通り抜けながら、美咲は今でもジョッキ8本持てるかな?と思い出し笑いをした。
駐車場に車を停め、伊勢丹に入る。沢山の待ち合わせをしたこの場所。今、美咲は伊勢丹の中にあるジュエリーショップで働いている。若いカップルにペアリングの提案をしたり、彼女に贈るプレゼントに、ネックレスを探す男性のお手伝いをしながら、美咲は幸せをおすそ分けされているみたい、とほほえみを絶やすことなく仕事ができている。
出勤するとすでに長身の男性がひとり、カウンターで書類を書いていた。アクセサリーの保証書を作るためだ。背が高いな、美咲は横目でちらと見てバックルームに入る。
「美咲、早々にごめんよ、あちらのお客様の保証書…」
同僚がカーテン越しに声をかける。
「了解、保証書作ってお渡しするね」
今日も忙しくなりそうだな、と笑顔を作りながら美咲は売り場に出た。
「お客様、ご記入ありがとうございます。記入用紙をお預かりしますね。」
記入箇所を確認しながら、笑顔で書類を受け取る。氏名欄には、懐かしい名前。
カウンターにはいつの間にか連れの女性が並んでいた。小柄でかわいらしい女性は男性に腕を絡ませ、ありがとう、うれしい、とほほえんでいる。美咲はすぅ、と息を吸いながら男性を見上げた。そこには、10年前より落ち着いた、でも相変わらず端正な顔立ちの宏樹が、女性にほほえんでいた。宏樹は美咲に気づいていないようだ。そうだよね、と美咲はそれだけ思った。
保証書を渡し、2人を見送る。美咲は、女性に
「とっても良くお似合いですよ。」とほほえみかけ、宏樹に
「末永く、お幸せに」と言いながらお辞儀をした。
「ありがとうございます」と宏樹が振り向きながら、美咲の顔を見て、少し目を開いた。
「ねぇー、次はカフェ行こうよー」女性が宏樹を引っ張る。
日曜の人ごみにまぎれていく2人に向かって、美咲はもう一度、深く長いお辞儀をした。
宏樹がどんな表情をしているか、見えないように。
(終)