しめっぽい内容が続いたので、今回は休職中に私が取り組んでいたこと、楽しんでいたことを書いていこうと思う。休職が決まった時「休んでいいのか」「外出は通院とスーパーしかダメなのでは?」とか真面目に考えていたが、結局遊び倒していたし、自分がやりたいと思うことしかしなかった。
好きなモノを買いまくる
私は国産(昭和30年代~50年代)の古着が好きで、着なくてもデザインが美しいものは迷わず購入し、愛でる趣味がある。普段はどこに行くにもパジャマばかりで着る予定もないのに、大好きな古着屋さんに通いつめ、購入した。余談だが、今のアイコンで着ている赤色のワンピースもその古着屋さんで購入したお気に入りだ。
またメイク道具や、化粧水・乳液・美容液といった基礎化粧品をアレコレと試すのも大好きで心の落ち着く趣味である。繰り返しになるが、メイクをしていく場所も特に多くはないのだが、新作コスメやSNSで見て気になる商品はネットで購入したり、頑張って電車を乗り継いで店舗に買いに行った。
自宅に戻り、商品を開封する時の高揚感といったら!今タイピングしながら想像するだけでワクワクする。開封したコスメたちを持ち運び用の金庫くらいの大きさの、コスメボックスに収納していく。そして、気分の良い時にメイクする。
YouTubeで、なりたいイメージのメイクを検索する。そうそう、こんな感じになりたいの!動画を見ながら、時には停止してメイクをしていく。時間を忘れて、自分の顔に向き合い、丁寧にメイクする。本当に楽しい時間だった!
これも余談だが、私のハマっていたコスメブランドがメイクアップコンテストを開催していたので、動画を応募したことがある。テーマは確か「夢で知らない人に恋をし、目覚めた時の切なさ」だった。思い返すと恥ずかしいが、賞を狙っていたわけではなく、そのブランドに愛を伝えられたらいいなと思った。今もパソコンに作った動画が残っているが、恥ずかしくて封印している。
好きな場所へ行きまくる
以前の記事にも書いたが、
YouTuberのHIKAKINさんを一目見たくて東京に行ったり、1日1寺京都日帰り旅行に毎週行ってみたり、博物館、美術館、単館上映の映画を見に行く、スパイスカレー巡り、好きなお笑い芸人さんの聖地巡礼など、振り返ると色々な場所に足を運んでいた。
HIKAKINさんからの、新大久保
一番心に残っているのは、HIKAKINさんが参加するイベントに行ったこと。深夜バスで東京まで行き、その日の夜に再び深夜バスに乗って自宅へ帰る計画だった。よくその体力が当時あったと思う。
イベントに参加した後、まだ15時過ぎくらいだったはず、私は新大久保に向かい、韓国コスメを買いまくった。当時「ザ・セム」というブランドのコンシーラーが大人気だった。その理由は「シミがきれいに隠れて、しかも安い!」1000円しなかったと記憶している。カラーバリエーションも豊富なので、直接肌にのせて試してみたいのと、品薄状態でなかなかどこのお店でも見つけることができなかった。
新大久保には、たくさんの韓国コスメ店が立ち並んでいたが、どの店舗にも「ザ・セム」のコンシーラーがワゴンにもりもりに盛られていた。ビックリした。韓国コスメは高機能で低価格だから、色んなアイテムを挑戦しやすい。いわゆる「プチプラ」の部類だが、なぜか私はこの時3万円分も買い物をしてしまった。全部使うのに3年くらいかかった。
とにかく「自分へのご褒美」をしまくった東京旅行だった。
大阪の万博公園からの、北海道
少し話がそれてしまったが、もうひとつ、記憶に強く残っている場所は大阪の万博公園だ。太陽の塔で有名な場所だ。
幼少時、私は大阪に住んでいたことがあり、よく万博公園に連れてきてもらった。必ず太陽の塔をみるのだが、おさな心に「怖いなぁ」と思っていた。父は太陽の塔の前に私たちを絶たせ、写真を撮るのが好きだった。
博物館を訪れるのも趣味のひとつで、探してみると、公園内に「国立民族学博物館」というなんだか仰々しい施設を見つけた。仰々しい名前の割に、観覧料は良心的。
地域展示といって、世界をオセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、それに日本を含むアジア各地域に分け、オセアニアを出発して東回りに世界を一周し、最後に日本にたどり着く構成になっている。衣食住というとても身近なものを実際に目にできるので、本当に興味深い。特に民族衣装で見ることができる色彩感覚の違いは、どうやって起こるのだろうか?と見ていて面白かった。
その中でも私が最も惹かれたのは、東アジアのアイヌ文化だった。専門家ではないので割愛するが、もっと知りたいなと思っていたところ、北海道に「ウポポイ」という施設があると知った。行きたいな、と思っていたところコロナ禍に突入し、夢は叶わないでいる。いつか行きたいと思い、施設の画像を印刷し、時折眺めている。
英語の勉強
唯一、仕事に直結することとして続けていたのは英会話だった。仕事場に近い場所のスクールを契約したため、結局仕事場の近くまで毎週通っていた。正直人と話すこともシンドイのに、母国語でない英語を週1回話すのはどうかと思ったが、意外な形で長続きした。
長続きした理由、ひとつは「英語の方が、日本語よりもシンプルに感じた」から。クッション言葉や敬語を考えずに、言いたいことをパズルのように当てはめていくという英語の構成が、日本語よりも気楽だった(ペラペラ話せそうに書いてしまったが、何度も聞き返していました!)
英会話教室が長続きした理由、ふたつめは「とても良い講師に出会えた」から。とても陽気で明るい先生で、いつも鼻歌を歌って、真冬でも半袖を着ていた。私はプライベートレッスンを契約していて、ビジネス英会話を集中的にお願いしていたのだけど、レッスンのはじめに必ず聞かれる質問「前回から今日までで、一番ハッピーなエピソードを話して」がどうしても話せない日があって「休職している」と話した。
気を遣わせてしまうかなーと思ったが、杞憂だった。「それはおめでとう!自分に向き合って、新しい自分に出会えるね!」とか「アメリカでは、メンタルの話はフランクにしている」とか前向きな言葉をたくさんかけてくれた。
メンタルが落ち込んでいる人間に前向きな言葉をかけちゃだめだ、とよく言うけど、人によると思う。私はうれしかったし、追い詰められることはなかった。日本以外のメンタルウェルネス(メンタルヘルスではなく)事情を聞き、先生も落ち込んだ時は川にひとり釣りをしに行くとか、ばかばかしい漫画を読むとか、まぁ必ずあなたは今よりよくなるよ、と毎回屈託のない笑顔で声を掛けてくれた。
先生に会うと、いつも元気を貰えたので、英会話よりも先生に会いたいがために頑張って毎週通っていた。退職するにあたり、先生にはプレミアムなポッキーに「御礼」の熨斗をつけてプレゼントしたが、「この紙は何だ!?寸足らずのラッピング?」と最後までおちゃめだった。
仕事のことを思い出すことはなかったか?
在職中は、24時間社用携帯を気にする生活だったし、自分の発言を思い返してはあれで良かったかと夜中に思い出して眠れなかった。
休職を始めた数日間は、みんな困ってないかなとか、携帯に連絡が来るかなとか考えてソワソワしたが、ただの1度も仕事関連の連絡が来ることはなかった!組織の中での自分は、駒のひとつで、歯車の一部で、代わりなんていくらでもいるんだなと実感した。悲観的な意味ではなく、悟った感じ。
だからこそ、好きなことができたし、行きたい場所にも行けた。そして、傷病手当があったからこそ、この自分の好きなようにやれる生活は送ることができた。
メンタルも、身体の体調不良も、焦らずにかつ楽しんで養生するには、まずはお金、そして、自分がリラックスできる環境、孤独感を感じず負担にならない程度に誰かと関わること。これが必須だと思っている。
傷病手当の申請も、会社を通してとはいえ、身体が辛い時に書類を書くのは大変だ。色々な手当金、医療費の負担を減らす制度など使えるものはたくさんあるから、すべてえいやっで処理して、少しでも金銭的に負担・不安のない環境を整えることを、それだけは何とかやって欲しいと、私は思う。
くりかえしになるが、仕事はあなたがいなくても案外まわる。だけど、あなたの人生にあなたは代わりはいないので、自分ファーストで生きていってほしい。十分あなたは他人のことをおもいやってきたのだから。
続