今日は、トイレ掃除の日、かー。
少し重たくなった足を動かして、女は化粧室の前に立つ。ネームプレートを外し、外していたマスクを装着して、掃除道具入れを開ける。
まだ、掃除していないけど、トイレ掃除のチェック表にチェックとシャチハタを押す。そして、プラスチックのカゴに入った雑巾やトイレクリーナー、消臭スプレーを手にすると、勢いよく掃除道具入れの扉を閉めた。
ガタン、と音がした。
女は県内に系列店をもつスーパーで働いている。接客スキルには自信があったが、いざこの会社で働きだしてみると、売り場案内くらいで、接客らしい接客はすることはない。お客様のためを思い、商品説明をしてみてもネットの口コミで見たのでこちらにします、と言われたり。接客にやりがいを見いだせないでいた。
まあ、この仕事もいつかは淘汰されて亡くなっていくのかな…
この10年以上勉強しながら、失敗しながら、傷つきながら磨いてきた接客スキルも地域の最低時給の評価だしね。そんなものよ…。
生活するのに困らないくらいの給料が振り込まれる。贅沢をしなければ、何とか生活できる。色々考えるのも疲れたし、このままでいいや、このままで。
女は将来に不安をおぼえると「このままでいいや、このままで」を繰り返していた。
女が締めた掃除道具入れの扉は、思いのほか大きな音を立てた。
「わっ」
腰の曲がった女性が店内用のカートを押しながら、声を上げた。
「あ、すみません、びっくりしましたよね」
女は女性に声を掛けた。
「はい?」
女性は、聞き返した。
「あ、あの、大きな音が出て、すみ・・・」
「あぁ、補聴器しとるけんね、ガーンっておっきな音が響くんよ、なのに、人の話す声は分からんので、困ったもんで、そういえば、」
女性の話は長くなりそうだ、女は店内用カートを戻す手伝いをしながら、女性を出口まで見送った。
あぁ、そうか、補聴器をされていたんだ、気が付かなかった。前なら気が付いて、大きな音を出すことも控えたし、話す時はゆっくり話したのに…接客スキル、錆びついてるな。
女は少し、笑った。
トイレ掃除中、の看板を立て、さあトイレ掃除を始めようか、と扉を見ると使用中であった。女は小さな溜息をついて、低い天井を見た。ああ、ついてない。さっきの話がなければたぶん、この人がトイレを使うより先に掃除ができたのに。
ついてないなー。
プレッシャーにならないよう、トイレから少し離れた場所で掃き掃除を始める。トイレ掃除の割り振り時間は15分なので、早く退室してもらわないと困るなぁ。女は時計を一度見てから段取りを組みなおした。
砂埃が集まってきたので女はちりとりを持って中腰になった。その瞬間、ガチャと音がしてトイレから男性が出てきた。
「ああ、すみません、」
男はそう言ってドアを素早く締めた。
「いいえ、大丈夫ですよー。」
女は男の顔を見ずに、ちりとりでごみを集めながら返した。
「トイレ、一番きれいですよ」
男はタオルハンカチで手を拭きながら女に声を掛けた。
「え?一番ですか?」
何と比べて?女は男のいうことがすぐに理解できなかった。男はハンカチをズボンに押し込むと女の顔を見ながら話し始めた。
「いやね、僕、仕事柄車移動が多くて、ここの系列のスーパーのおトイレ、よく借りるんですよ、あ、コーヒーとか買うからこの後、すみませんね、それで、」
「はぁ、」
「それでね、ここのお店のトイレがいつも一番キレイ。いつもありがとうございます、気持ちが良いですよ。ちなみにいつも汚いのは○○店。」
「あ、それはすみません、でもうちのトイレきれいですか、良かったー。皆にも伝えます。」
うんうん、と男は言いながら手ぶらで店を出た。まぁ、いいか…と女は後ろ姿を見送った。
トイレ掃除に少しだけプライドが傷つく私はまだ確かにいるけど、でも。でも、優れたトークがなくても、商品知識がなくても、お客さんを心地よくできるんだね…へー…。
女はもう一度、掃除道具入れの扉を開けて、掃除チェック項目をひとつずつ確認した後、音をたてないようにゆっくりと扉を閉めた。
完
(この物語はフィクションです。)